嗅覚が鈍い

嗅覚が鈍いです

香りにまつわる夏の思い出

いや、たいした話じゃないんですけど。もう数年前のこと。
ちょうど今みたいな猛暑の真夏、東海地方某県の出張先に到着するも、
まだお客さんがいらっしゃらず「空いてるから先に入って仕事してて」と連絡が。

真新しいその事務所は見た感じ普通の一軒家で、
だだっ広い田園地帯の真ん中にポツンと建っていました。

季節が季節なら、風が通り抜けて気持ちが良さそうな景観でしたが、
あいにくその日はほぼ風もなく、ただただ照り付ける熱い日差しが肌にピリピリと感じられたので、
日焼けを嫌った私はこれ幸いと指示に従い、ひとりでその建物に足を踏み入れました。

お客さんの新たな拠点となるその建物にはまだ荷物が運びこまれておらず、
新築のにおいがする内部はガランと寂しく、
窓が多く日当たりが良いのにもかかわらず、少し暗くて、
なんだかひんやりと涼しかったのをよく覚えています。

2階→1階の順にじっくりと巡り、首から下げた一眼で内部の撮影を済ませてしまい
やることがなくなった私は、再び外に出ました。

強い日差しに焼かれたアスファルトや土、緑の青臭さ、つまり「夏のにおい」が鼻をつきます。
私は建物の周囲の撮影も済ませておこうと考え、
家の脇の狭い通路を抜けて裏手に出てみることにしました。
通路の入口部分には低いハードルが置いてあり、関係者以外が気軽に立ち入ることを防いでいます。

そこを抜けた裏手には、かなり日当たりの良い小さな庭らしきスペースがありました。
さて、どこをどんなアングルで撮ろうか…と思案した、
そこへ突如、プーンと漂ってきた場違いな香り。

クラシックな感じのする、アルデヒドな香水の「大人の女の人」の香りでした。
ん?と周囲を見回すも、先ほどまでとなんら変わらない、強い日差しと濃い黒い陰影、真夏の田園風景。
誰がいるわけでもない。誰か来たわけでもない、人通りはない。
ここの事務所の従業員に、香水をつけるタイプの人はいない。
そもそもここには私しかいない。私は香水をつけて出張しない。

時間にしてほんの数秒だったかと思いますが、
地味に混乱するうち、香りは感じられなくなりました。
どんなにスンスンしても、感じられるのは「夏のにおい」のみ。

私はときどき幻臭を感じることがある…というか、
要するに「気のせい」なのだとそのときはすんなり納得し、
なんの疑問もなく、すぐに忘れて撮影を再開しようとカメラを構えました。

しかし、今度はどうもそわそわしてしまって集中できません。
ファインダーを覗くと、視界が狭まってなんとも自分が無防備になっているというような、
後になって敢えて言語化するなら、そういう感覚がしていました。
同じ作業を何度も経験してきた中で、
そのような感覚に陥ったのは、後にも先にももちろんこのときだけです。

そして、とにかく居心地が悪いのです。これは今も強烈に心身が覚えています。
それは例えるなら、スーパーやドラッグストアの閉店間際、店員の目を気にしつつ、
有線の蛍の光が流れる中で必死で商品を探しているときのような、
はたまた、逃げられない人混みのなか「今日香水つけすぎた!」と自覚したときのような。

もちろんこのとき、私はそのようなシチュエーションに身を置いているわけではないのに
その焦燥感にも近い「居心地の悪さ」という心身の状態のパッケージを、
まるで誰かに外部から操作され、脳に直接注入されているかのような、
そういう不思議な感覚がしたのです。

このとき私は、自身のその感覚について深く考えるようなことはありませんでしたが
とにかくそそくさと撮影を済ませ、通ってきた狭い通路とは反対側の脇を通り、家の正面側へと「脱出」しました。

ちょうどそこへタイミング良く車で到着したお客さん。
出張先の組織の長、カリスマ的存在の中年女性です。

挨拶しつつ、撮影はすでに済ませた旨を伝えました。
彼女は豪快な人で、じゃあ飲みに行こう!と私を誘ってくれて(真昼間なのに)、
自らの乗ってきた車の助手席に乗るよう促してきました。

そのときでした。あの柵がわりのハードルが、こちら側に向かってバタン!と倒れたのです。

???
倒れたハードルに注目するカリスマ女社長と私。
冒頭に述べた通り、その日は風があまりなく、ハードルの足元の安定性が悪いわけでもなく、
あのようなものが倒れる原因が思い当たりませんでした。

社長がじっとそちらを見ていた、その時間が少し長かったのが印象に残っています。
とにもかくにも、倒れたものを直そうと私がそちらに数歩歩み寄ると、
「いいよいいよ!そのままにしといて」と止められました。
そしてそのままさっさと車に乗せられ、
私は「昼間っからやっているお店」で恒例の接待を受けたのです。

楽しく飲み食いしてお開きになり、夜はこっそり自分の上司と、
そして女社長の下で働く社員さんと合流しました。これも恒例のことでした。

社員さんは私より少し年下の男性ですが、お酒が好きでつきあいが良く、気も遣わないので
出先で一緒に飲むには楽しい相手だったのです。私はお酒が一切飲めませんが…

3人の場は盛り上がり、お酒大好きな上司がベロベロになり(それを世話するのが素面の私の役目)、
ふと「新しい拠点」の話になりました。
男性社員が唐突に言うには「あそこはできたばっかりなのに、幽霊がいるって評判なんです」。

私の経験上、この手の組織には、幽霊話は珍しくありません。
若い従業員さんが多い地方の事務所などはだいたい、多少なりともそういう噂や逸話があるものです。

そもそも、先のカリスマ女社長などはちょっと霊感があるとかいうレベルでなく
日常的に「見えている」のだそうで、人に憑いているのがわかったり、軽いものなら祓ったりもできて、
はては相手の家族構成、お墓のことや先祖のことを言い当ててきたりもする、という特技がありました
(ただし、これに関してはコールドリーディング的なものが多分にあったのではないかと私は疑っていた)。

したがって私はあまり驚きませんでしたが、そういう話は好きなので興味津々で耳を傾けました。
彼いわく、若い従業員があそこでいろいろ目撃しているとのこと。

彼自身もちょっと見えるらしく「理由はわからんが、中に何か妖怪みたいなものが住みついている」と言うのです。
そして「家の周囲を女の霊がぐるぐる回ってる」とも…

妖怪も唐突だが、女がぐるぐる回っている、とはなんとも荒唐無稽で意味不明な不気味さとインパクトがある絵。
そして私にしてみれば、どうもそれがさきほどの自分の体験とリンクしてしまうわけです。


少し昔っぽい、「女の人」の香り。言いようのない、落ち着きのなさ、焦燥感。
そこに誰もいないのに誰かがいるような違和感、緊張感。
倒れたハードル、それをじっと見つめる女社長。

いや、家の内部のことはよくわからないけども、
あの眩しい日差しの中で起きた、いちいちちょっとずつ引っかかる一連のできごとが。

その女はぐるぐる回って何をしているのか?と私が尋ねると、
「俺の感覚では、よそ者が来るのを追い出そうとしてる気がする」との回答。
これは偶然にしてもよくできてるなあ、と思いながら、私はここで初めて、昼間の一連のできごとを彼に話しました。

すると彼もたいして驚きもせず、あーやっぱりねみたいな反応で、
「ついてきたりはしないと思うから大丈夫ですよ」みたいな言葉をかけてくれました。

なぜそこに女がいて、よそ者を追い出そうとしていたかが判明するわけでなし、
何か見たわけでなし、はっきりとしたオチがあるわけでなしの地味なお話ではありますが、
私はあれはオバケだったと、今もちょっと信じています。
香りで存在をアピールするオバケ。

あのとき、倒れたハードルをじっと見つめるカリスマの目には何が映っていたのか。

何はともあれ、ふっと漂う場違いな香りには、くれぐれもお気を付けください。